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 (4)熊本−長崎−鹿児島@

020813 JA09AW Dep. RJOY 14:20-17:44 Arr. RJFT 3h24m
8月14日、熊本を離陸して雲仙に向かった。

まず島原城。司馬遼太郎は『街道をゆく・島原・天草の諸道』の冒頭で、「日本史のなかで、松倉重政という人物ほど忌むべき存在は少ない」と書いている。許せない歴史上の人物だったに違いない。貧しかった島原半島に、みさかいなく5層の天守閣を持つ不相応な城を作った。切支丹を苛め殺した。さらに子・勝家ともども、空前絶後といえるほどに領民を搾った。

島原の乱の本質は、宗教一揆ではなかった。あまりの苛烈な政治に、すでに棄教者となった人達が「どのみち、死ぬのだ」と、もはや早くこの世を去るために結束するという絶望的なところに追い込まれ、蜂起したものであった。

人が人をいたぶるだけではなかった。「島原大変肥後迷惑」という言葉がある。1792年旧暦4月、島原の背後にある眉山が強い地震とともに、その東半分を崩し去った。このとき生じた津浪は、対岸の熊本や天草をも襲い、大きな二次災害を起こした。島原の海にはたくさんの島が生まれ、陸上にもいくつもの「流れ山」が生まれている。

普賢岳の噴火も記憶に新しいが、今回は眉山も、普賢岳も、雲多く接近できなかった。

海岸に沿って南下すると、天草四郎時貞ら一揆軍3.7万人が籠城した原城址。その前に、西有家町の海岸に切支丹墓碑。陽光に周囲の水田が映えて、何か救いのある風景になったのが良かった。

さらに先端の口之津は、文字通り島原湾の狭い湾口にある。ここはまた、貧しい農村の少女達が石炭船の船底に隠し乗せられ、密航による「からゆきさん」として海外に送り出された港でもあった。

島原半島の先端にも棚田があった。だが、どの田も土が露呈していた。稲の刈り入れがすでに終わっているのか、季節感が異なる。


長崎。上空から見ても、不思議と魅力的な街だ。丘を駆け上がる町並。活水女子大のあたりから丘を上がると、幕末から明治にかけての外国人居留地だったはずだ。

切支丹墓


長崎


鬼岳


富江台地
ふむふむ、これがオランダ坂かな、グラバー亭は、もう少し南側の筈だが、と上空を旋回。では、出島は? いまや島ではなく、街のビル群の中に沈んでいるが、これも判別できる。

浦上川を少し北上すれば、平和祈念像や浦上天主堂も視認できる。もっと空撮を堪能していたいが、五島列島福江に向かう。

福江空港脇のダウンウィンド直下には、草原に包まれた可愛い火山、鬼岳がある。
ここは火山涙、すなわち水滴のような姿から、ペレーの涙とも言われている。ペレーとは、ハワイの火山の神様だ。

さらに、粘性の薄い溶岩が広がった富江台地(台地の真ん中にデベソのように火口がある=美保管制圏内・中海の大根島も同様だった)、嵯峨島西岸の火山海蝕(火山の断面が見える)、『肥前国風土記』にある川原浦、すなわち三井楽の遣唐使船寄泊地(国内最後の寄港地だった)など。

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