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 (2)瀬戸内海

020813 JA09AW Dep. RJOY 14:20-17:44 Arr. RJFT 3h24m
そんなわけで現在地は八尾。しかし最終目的地は、八尾でも松山でもなく、当初予定では長崎だった。しかし、九州北部の前線の影響で、北九州や長崎は雨のエコーがかかっていた。近隣空港はどうだろう?と、熊本の県営エプロンの田尻さんに電話すると「いらっしゃいよ、こっちは晴れてるよ」という。

八尾を離陸し、瀬戸内海を行く。いくつか撮り残したものを、あるいは再撮の方がよさそうな地点を経由していく。不思議と透明度の高い、視程の良い日だった。しかし、夏真っ直中の午後となれば、四国も中国も山間部はCbが密集している。高松など、ATISは「サンダーストームが移動中」と言っている。遠く、頂部をギラつかせ、たなびく積乱雲の裾に、濃いダークグレイのカーテン。あれがその降雨だと分かる。

行く手に芸予諸島。景観と風景ということについて、少し考える。

古来より人は、一人では生きられなかった。一定の区域に、家や祠を建て、共同で生活してきた。

因島・弓削島


御手洗
自然と、自然の中に人が生きるために配した施設を含む場景を景観という。一方、それを心の中で味わう情景を、風景といっている。すなわち、風景には、景観と情景の2要素が含まれている(ちなみに、ドイツ語Landschaftを「景観」という用語として初めて使ったのは、植物学の本だった)。

さて、風景の中には原風景といわれるものがある。幼年期や青年期の体験を通して、心に刻み込まれた風景であることが多い。都会生活の中で、時折思い起こす故郷の風景は、聖なる原風景である。心の持ち方で、原風景は現れる。ときにこれは、その核となるところに聖性をもっている。結婚式・葬式・祭り・正月・・・・など儀式を行うとき、世俗の生活空間に、幕を張り、注連縄を飾り、聖性を共有してきた。

「夕空はれて秋風吹き・・・・」元スコットランド民謡『故郷の空』(明治21)
「兎追いしかの山・・・」尋常小学唱歌『故郷』(大正3)

これらに、「作られた原風景」を感じるのはどうしてか? 「与えられた」原風景が定着したのではなかったか?

九州から上京した青年を主人公とする夏目漱石『三四郎』(1908)。
北原白秋(柳川)も、室生犀星(金沢)も、それらの共通項は、明治期日本の近代化の過程で、地方からの上京者が激増するという時代背景での作品だ。

戦後は高度成長期、「かあさんが夜なべして・・・・」急増する都市若年労働者を対象とする共産党系うたごえ運動で生まれた『かあさんの歌』(1956)

これでもステロタイプ化した農村像が創出され、「原風景」は作為的に(「・・・・だだよ」なんてね)上塗りされていったような気がする。(『風景の事典』古今書院・原風景の項をもとに)

瀬戸内海の原風景は、どこにあるのだろう。『瀬戸の花嫁』?

ちょうど19世紀の終わりから20世紀の初めにかけての明治後期という時代は、わが国では、人々に見える風景が変わっていった時代であった。世界の相貌が徐々に変わっていったのである。それは、人々とりまく外界そのものが変わったというのではなく、人々自身が変わることによって風景の見方が変わったのである。近代における新しい見方で、近代の新しい風景を発見した、すなわち近代的風景を発見したのである。現代のわれわれの風景へのまなざしは、このころに枠組みができあがったのである。(西田正憲『瀬戸内海の発見』中公新書)

日本の伝統的風景とは、歌枕の地や故事・伝説に由来する名所旧跡そのものであった。それを、欧米人の客観的で科学的な視線の影響で、自然景や人文景といった近代的風景を見るようになったのである。(上掲書)

わが国で選定された国立公園の第1期生12カ所(1934.3=雲仙・霧島・瀬戸内海、1934.12=阿寒・大雪・日光・中部山岳・阿蘇、1936.2=富士箱根・十和田・吉野熊野・大山)のひとつにして唯一の海洋公園、瀬戸内海国立公園は、こうした新しい風景観の延長上に生まれた。

海上は天候よく、視程はすこぶるつきで、飛行高度も高くとれ、因島・弓削・生名・大三島・大崎上島・大崎下島など芸予諸島の島々が、「なるほど瀬戸内海」というように写った。
でも、自分で納得した「なるほど」は、何に依拠しているのだろう。それを解きほぐす手だてを、もう少し知りたい気がする。こうした素材の収集ひとつが、やはり、何度も飛ばないと、うまくいかない。
具体的な「なるほど」の場所を例として上げれば、大崎下島の御手洗。江戸時代の千石船の主要港だった港町だ。

町は谷筋から二股に山に登る。港は、大きな島の周囲に点在する小島に、ガード堅く囲まれてある。それは自然の防波堤に囲まれてということだ。
以前、トカラの離島の取材に精を出した。800人規模の村の予算が、平地ならば10万人規模の市に相当する50億円に達するところだ。予算の大部分が港湾整備。離島は、ひとつの小島に2つの港が必要だった。移動する低気圧の嵐(風向が変わる)に対して、風の島影でないと、船が接岸できないからだった。西風が卓越風にせよ、東風もある。そのとき接岸できないと、次の航海は5日後、都合10日間、物資も都会の文化も途絶えるのであった。

どんな島でもいい。島を上空から見れば、風下側は明鏡止水とまではいかないが、明らかに波の立ち方に差があることが分かる。飛べる日ですらそうだから、嵐となれば切実である。
それを知って、この御手洗を見ると、江戸時代の航海者の地形的興味が「なるほど」と追認できる気がするのだ。

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