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000723 JA09AW Dep. Ohtone 10:45−13:20 Arr. Ohtone 2h35m
翌日も東京湾を飛ぶ。千葉から連なるコンビナートを辿り、富津岬、第一海堡、第二海堡、横須賀、そして横浜へと飛んでいく。

40年も前、小学校高学年だったか中学だったか、社会の時間に日本の4大工業地帯は何かという設問があったように記憶している。京浜、中部、阪神、北九州だったか。さらに、京浜工業地帯の特長は、というのもあった。

他と比較したとき、この地域にしか存在感のないものは印刷工業だった。カメラマンをするには田舎にいてはダメなんだろうな、とその瞬間植え付けられたような気がしたことを思い出す。

今や太平洋岸を飛ぶと、とりわけ夜間に飛行すると、4大工業地帯などやはり半世紀前の事実なんだなと強烈に思う。夜、地上の光が消えることがないのだ。 たとえそこが田圃や畑であっても、必ず光源がある。どこでも都市、どこでも工業地帯なのだ。

そういえばあの頃、京葉工業地帯というのはどういう状況だったろうか。製鉄所が次々に建設される時代ではなかったか。

今や溶鉱炉が廃止されるほどに産業構造は変わっている。石油化学工業に火力発電所、海岸のすべてが壮大な工場と化しているこの海岸風景も、それが持つ意味が変わっていくはずだ。

もう、デジタルカメラとインターネットを駆使すれば、カメラマンも印刷工業を特色とする工業地帯に住む必要など全くないのだ。

これらは少し悲しい風景でもある。ささいなことだが、こうした埋め立て地のコンビナートを車で走ると、海の近くにいるにもかかわらず、工場に封鎖され、水辺へのアクセスが全くできないことだ。

漁協は漁場を失うことで補償金をもらうのだが、一般市民は補償金は無縁にせよ、せめて海が見える場所への取り付け道路の1本くらい、所々に作ってもらってもいいような気がする。海の近くで海が見えて当然とするか、進出企業のために埋め立てたのだから、全部あげてしまうか。

次から次へと工場誘致をした時代、行政にも企業にもその程度の余裕があれば、今、責められて慌ただしくも環境問題に対処する、などということもなかったかもしれない。


むろんバブルも然りだ。 要は周囲への思いやりであり、それが甘いというなら、この行為が他人にどう映るか、といった読みだといってもいい。金が絡むと極端に必死になる国民性は、そこを盲目にしてしまう。違うだろうか。

ちなみに外国人とこの有効な国土の狭い国の上空を飛ぶと、誰もがあまりにゴルフ場が多いといって驚く。身銭を切るのではなく、社用の接待の場となれば、それは異様に増殖するのである。根は共通じゃなかろうか。残念ながら、ヨットはまだしも、グライダーなどは社用になりえないから、ちっとも流行らない。

富津。東京湾に突き出したこの半島では、ウィンドサーフィンではなくジェットスキーが群れていた。それぞれのマリンスポーツにそれぞれの場所があるようだ。


Tokyo TCAが富津の先からどういう行動をとるのか聞いてきた。そろそろレーダーサービスのエリアの外に出るからだろうか。それとも真っ直ぐ飛ばないから目障りなのか。この岬の上空で何回旋回するのか。次はどこか。

新日鉄君津


第一海堡


第二海堡


横浜根岸


RJTT


大井埠頭、お台場
しかし、それは出たとこ勝負。面白い風景を発見したら旋回する、というしかないから予測が立たない。申し訳ないと思うが、「後2回、旋回します」、あるいは「横須賀に渡って横浜を撮って、同じルートを逆に戻ります」くらいのことしか答えられない。

富津の先に第一海堡、第二海堡。ちなみにペリーが浦賀に来航し、4隻の黒船で幕府を威嚇したのは1853年であった。幕府は慌てた。 その2ヶ月後から、海から江戸への入り口に、第一から第三の砲台としてお台場の建設が着手される。完成は9ヶ月後。

富津の先に第一海堡、第二海堡。ちなみにペリーが浦賀に来航し、4隻の黒船で幕府を威嚇したのは1853年であった。幕府は慌てた。 その2ヶ月後から、海から江戸への入り口に、第一から第三の砲台としてお台場の建設が着手される。完成は9ヶ月後。

1862年9月14日、生麦事件が起きた。薩摩藩主の父一行の行列を、騎馬で横切ろうとした英国人商人4人に対し、藩士が斬りつけ1人を殺傷。英国は、幕府に対し陳謝と賠償を要求するとともに、7隻からなる艦隊を鹿児島に送り、犯人の死刑と賠償を要求。応じない薩摩藩の汽船3隻を拿捕、砲撃戦を行った。これが、薩摩藩が開国論へ転換し、英国に接近する契機となった。

1864年9月5日、17隻からなる英仏蘭米の4カ国連合艦隊は、前年の関門海峡における砲撃への報復として、総計288門の艦砲により下関を砲撃した。長州藩砲台は1時間で破壊された。翌日、連合軍は上陸し62門の大砲を奪い占拠。8日には長州藩は降伏し、高杉晋作を全権として休戦交渉に入る。その時、高杉晋作は25歳。藩内の攘夷派の力は弱まり、討幕派が力を得ていく。

ま、このように砲撃を受けた経験があるわけだ。お台場は、今やレインボーブリッジの脇となって、東京の真っ只中だ。

一方、海堡は明治5年から建設された海の要塞である。新都東京、すなわち天皇のお膝元を守る防衛線としては、ずっと前進し、東京湾の狭窄部をコントロールする必要があったのである。この時代の時代背景には、こんなことがある。

明治4年、薩摩長州土佐3藩から御親兵を集め武力を強化した新政府は、廃藩置県を断行し、全国を直轄地化。当初3府302県。12月には3府72県に改正。


明治5年、学制の公布。日本最初の鉄道、新橋−横浜間に開通。徴兵告論が布告され、翌年、徴兵令が布告される。

明治6年、地租改正。征韓論を主張する西郷隆盛ら一斉に下野。

明治7年、3年前の漂着琉球漁民54人殺害事件を理由に、台湾蕃地事務都督・陸軍中将西郷従道は政府の中止決定を無視し、3,658人の兵士と4隻の軍艦をもって台湾に出兵。明治政府初の海外出兵。士族の不満をそらすためでもあった。台湾は日清戦争後、日本の植民地となる。

明治8年、日本の軍艦雲揚号、朝鮮半島江華島付近で挑発行動、砲撃を受ける。力ずくで朝鮮に開国を迫る、その方法は22年前のペリーの黒船による外圧の真似であった。

第二海堡を経て浦賀へ。三浦半島側に移って目立つ存在は、メガフロート。浮体滑走路である。おそらくは米海兵隊普天間基地の移転を狙い、技術的実証のため作られた。実際に航空機が離着陸の試験を行っている。

横浜では、上空から目立つものは根岸の高台である。競馬場跡と、夏色の芝生の中に散在するおおらかな米軍ハウスのような住宅群。密集する人家ではないところが、いかにも外国風である。みなとみらいの高層ビル群が遠景にあると、この町の特性も絵として語りやすい。聞いたところでは、第二次大戦敗戦直後は、あの繁華街伊勢佐木町にも占領軍の滑走路があったのだそうだ。

て、この日の撮影飛行もほぼ一段落。 どうやって大利根に帰ろうか、思案しながら来たルートを戻ろうとふらふらしていると、Tokyo TCAが呼んできた。

「JA09 Air Works, Tokyo TCA」

ドキッとする。ぼくの機体は、米軍に始まった「国際共通航空語」に従って、zero niner Alfa Wiskyと普通は言われる。エアワークスは個人事務所の有限会社の社名だ。それをひとつの理由にこの機番を選んだということもあるのだが、きっと管制官の中に、うちで発行している滑空誌『TP』の読者か、あるいはご自身もモーターグライダーの愛好者なのか、少し事情が分かっている人がいるのだろう。

「現在、羽田はRWY16のビジュアル・アプローチとなっています。 3,500ft以上の高度をとってもらえば、羽田を突っ切って、大利根に向かわれても結構です。いかがですか?」

なんというプレゼントなのだろうか。この大空港を小型機で上空から撮影するなどということは、運航開始前の夜明け頃の時刻ならいざしらず、絶望的に無理な話だと思っていた。「ぜひ、よろしくお願いします」

もどかしくもフルパワーにする。気温が高いせいか、なかなかいい上昇力ではないが、少しずつ高度が上がっていく。

「管制塔と調整しました。RWY04の上を3,500ft以上の高度で真っ直ぐ飛んで下さい」
「了解しました」

羽田のRWY04の延長線上には川崎の石油コンビナートがあり、空域制限がある。1/10万首都圏詳細航空図には以下のように書いてある。

Local flying restrictions of Tokyo INTL AP
(1)All ACFT arriving at and/or departing from Tokyo INTL AP should take appropriate flight course so as to avoid Kawasaki petroleum Combinat Aria.
(2)ACFT other than the above are required not to fly over the said area, and even in case of necessity of flying over the area, not to fly below an altitude of 3,000FT

羽田に離着陸する航空機は川崎石油コンビナートを避けるコースをとるように。離着陸する以外の航空機も、この上空を飛んではならず、その必要がある場合は3,000ft以上の高度をとるように。

同じ石油コンビナートでも、千葉の一帯にはこのような規制がない。コンビナートに航空機が墜ちる事故などあると大規模火災が発生し、多摩川河口を挟んで隣に位置する羽田の運航が、一切停止してしまうおそれがあるからだろう。今、高度は3,500ftを維持している。なるべく早くRWY04の延長線上に位置しなければならない。

ヘディング040で滑走路の真上をいく。ぼくは左席にいるから右側となるターミナルなどが見えない。 右席にカメラを手渡して撮影要領を指示し、パチャパチャ撮らせる。水平直線飛行しか許されないから、機体をスリップさせて少し傾ける。恥ずかしいことだが、100ftほど高度が上がってしまった。

京浜島、大井埠頭、レインボーブリッジ、お台場、新木場、TDL、弧になった湾岸道路に沿う風景が目の前に展開する。

「09AW、到着機が確認できますか」
「はい、全部見えています」

視程はいい。千葉方面から、B747が、B767が、B737が、一定の間隔をとってアプローチしてくるのが見える。高度差は十分ある。右手下には、船の科学館やお台場を背景にファイナルターンする全日空ジャンボが見えた。なかなか感動的だった。

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