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991204 JA09AW Dep. RJOB 15:45−16:22 Arr. RJBK 1h56m
巨大大古墳の世紀、5世紀には、大阪平野以外にも墳丘長350mを超える古墳が作られている。

しかも、大仙陵古墳(現仁徳天皇陵)など生まれていない時期に、列島第二の規模として、この吉備の備中に造山(つくりやま)古墳は作られている。各地の地方政権は、この半分のスケールの古墳しか作り得ていないのだ。

何がこの勢力をもたらしたのか。ひとつは、瀬戸内海を使う朝鮮半島などとの国際交流ではなかったか。当時は陸づたい島づたいではあったが、この海は国際幹線であった。

造山古墳

例えば鉄は、当時、圧倒的な戦略物資であって、主要生産地である朝鮮半島南端の加耶からの輸入だった。

吉備は難波から下関までの航路にあって、その1/3の行程に位置する。そしてすぐ南には四国がある。

瀬戸内海航路を統制するいい位置にあり、しかも他の狭い海をもつ要所となるべき地域と比べ、ここは平野が大きい。弥生時代以降、瀬戸内海に面する稲作中心の最大規模の村々が営まれたのではなかったか。国際交流と生産力の高さ、これがひとつの王国(地域的政治連合)を作った。

吉備はひとつの王国であったから、ヤマトとも半島とも外交をしたのであるが、この時期ヤマト政権は、奈良盆地から大阪平野へその基盤を移しつつあった。巨大古墳が大阪平野に現れる。やはり半島との交流が、その理由だろう。

大阪平野に新しく盟主権を樹立したヤマトは、加耶および百済との結びつきが強かったこの地域の政治に関与・干渉し軍事統帥権を持ちたいとも考えていた。吉備はヤマトとも外交しつつ、関係が怪しくなると新羅とも結ぶという具合だったはずだ。ヤマトは、列島全体の明らかな掌握者としては成長過程にあり、各地の地方政権が流動的な関係にある中、国際的な激動が始まる。

4世紀後半の朝鮮半島では、高句麗が南下し、百済や新羅に侵攻してくる。百済は倭国(ヤマト)を引き入れて、それに対向しようとする。半島にあった鉄資源の導入が絶たれる恐れから、ヤマトは列島各地の首長に協力を呼びかける。吉備はそれに同調する。上毛野(群馬)もそうであった。ヤマトはこうした各地の地域的政治連合の盟主を同盟者として遇した。

同盟者として遇した結果、吉備や上毛野にも大きな古墳が作られていく。しかし、この5世紀はじめの造山古墳を頂点にして、吉備における古墳のスケールは小さくなっていく。一方、大坂平野の古墳は、ますます巨大化するのである。このあたりから列島の統制がヤマトに集中し、進んでいったことを物語っているのではなかろうか。

岡山空港を夕刻離陸して、造山古墳を見、岡南飛行場に着陸した。造山古墳の周辺は、その時代、おそらく海が近かったことが想定されるとともに、この付近には山陽自動車道のジャンクションもあるのが分かる。今もなおここは交通の要所である。
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