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991210 JA09AW Dep. RJOM 08:30−11:24 Arr. RJOB 2h54m
新潮社のとんぼの本『瀬戸内海島めぐり』を読んでいたら、こんな記述があった。

「ちなみに伯方島も伊予大島も村上水軍ゆかりの地で、あちこちに城跡、のろし台、船かくしの場所が残っている。城跡が有名なのは、伊予大島の属島で、東岸の宮窪から渡る能島(のしま・無人島)のものだ。伯方島には、この能島村上氏の菩提寺禅興寺があって、楠の巨木の下には村上雅房の墓があり・・・・・・」

さて、地図で能島を捜した。ちょっとやそっとの地図にはない。それほど小さい島なのだ。とあれば、なおのこと上空から見てみたいではないか。 白石一郎は『海よ島よ』でこう書く。

能島

「能島は、周囲せいぜい400mにすぎない。これが村上水軍の本家本元、戦国時代に瀬戸内海に君臨した村上武吉の本拠地なのである。対岸の伯方島から船折瀬戸を挟んで手の届くほどの近さだが、ここに通う定期船はない。無人島なのだ。しかし戦国時代、ここに城砦が築かれていた。本丸、二の丸、三の丸とひな壇式に高低をつけ、それぞれ回廊をめぐらした本格的な城砦である。城はおそらく島全体を蔽い、回廊は島を離れて海の上に張り出していたことだろう。周囲には桟橋が設けられ、いざという時には大小五百艘の船で島を取り巻いて防衛したという」

「村上水軍は別名を三島水軍と呼ばれる。一族が能島、来島、因島の三島に別れ、一族結束して瀬戸内海に海上王国を築き上げたからである。戦国時代では村上武吉が総領、来島の村上通康が次男、因島の村上吉充が三男である。村上武吉の名が日本の海賊の代表として後世に残ったのは、この人物が三千余島に散在していた海賊たちを組織化し、島々に常備兵を配置し、いわば兵農分離の形で、強力な水軍の編成を試みて成功したからだ」

古来より幹線道路であった瀬戸内海に蟠踞する海賊たちは、「往来の船を襲って略奪していたが、村上武吉はそれをやめ、帆別銭(ほべつせん)という通行税を徴収することで島々の生活を安定させた」。

それは積み荷の1割だったが、航海安全を保証されれば安い。しかし、秀吉、家康の天下統一によって、海の王国は否定され、排除される。

松山を8時半に離陸し、岡南を目指す途中に能島を探す。冬の瀬戸内は、晴れてはいるが視程は良くない。本州から四国へ渡る西瀬戸自動車道の伯方・大島大橋の先に、その無人島はあった。確かに小さい。しかし、その周囲の潮流はどうだ。川のようではないか。

以前、積極的にトカラの海に何回も潜ったことがある。

高速船に乗ったツアーではなく、島に渡って潜った。ダイビンギショップがない離島でスキューバをすることは、なかなか大変であった。エアの供給といった道具立てはもとより、伊豆の静穏な海と比べたら川という以外に言いようがない流速に圧倒されたのである。

水中撮影をする際、教科書は岩や珊瑚に触れないように、と書くが、あっという間にとらえるべき対象から離れてしまうのである。いくらフィンをバタ足しても、4kt以上の潮流とあっては、そこに止まれないのだ。

止まれたにせよ、カメラマンのエアの消費量はサポート役の2倍はあった。仕方なく片手で岩をつかみポジションをキープした。流れとは、なんと抗しがたいエネルギーなのか、海中で呆れたのだった。

能島の周辺には、それより凄い表情がある。海面にそれが表れていることが凄い。この水軍の城に攻め込む敵がいたとしたら、この潮流の先読みがどれほどできるか、それが戦闘的力量だったに違いない。
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