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001010/11 JA09AW  Dep. RJFM 08:31−12:58 Arr. RJKA 4h27m
JA09AW Dep. RJKA 15:31−17:20 Arr. ROAH 1h49m
JA09AW Dep. ROAH 08:25−12:36 Arr. RJKA 4h11m
通産省地質調査所の若手研究者が言う。

「口永良部島や沖縄鳥島といった火山の写真はありませんか?」 

航空図を見ると、屋久島の隣といえる口永良部はともかく、沖縄鳥島、すなわち区分航空図・奄美沖縄JAPA507Nで見る硫黄鳥島は、チョット、ネ、というところにある。徳之島から275°・62km、沖永良部島から320°・65km、与論島から355°・85km、東シナ海の孤島である。しかも差し渡し2km程度と小さい。

「ふん、それで?」
「あの火山の写真がなかなかないんですよ」

金にはならないが、研究者が興味持つ場所に興味がある。何か特長があるのだ、きっと。人の代わりにモノを見るのも写真家の任務だ。行ってみたくなった。

以前から行う必要のあった屋久島の撮影があった。

防府基地祭に出かけたおり、煮詰まった編集作業から数日間逃避するつもりで、九州南部に出かけることにした。宮崎では、ある本の出版を巡って人に会い、ぼくの考え方を説明するとともに、滑空界の動きや、あるべき姿について語っておきたいことがあった。

さて、RJOF防府のエアショーでは地上展示のみであったが、帰投時、会場ではそろそろ蛍の光というころに、ちょっとデモさせてもらった。

でも、正直言うと、22ktというかなりの横風の中、タワーから注意を促されたのに、あの広い滑走路から危うく脱輪しそうになったのである。なにがデモか、と情けなくもオロオロし、かろうじてエアボーン。

気を取り直して、離陸後100ftでピッチアップ。すぐに速度が抜けるから、すぐさまプロペラ・ピッチをクルーズに変え、過回転を予防するとともに、ラダーを踏み込みつつ90°バンクをとり、ピッチダウン。180°方向転換しながら降下し、イエロー・ゾーンの中程まで増速して人気の少ないクラウドラインに接近し、向こう側で再度ピッチアップする。こうしてタイトターンの8の字を見せてから、日没近い宮崎へ進出した。

翌日は幸運の快晴。RJFM宮崎を離陸し、屋久島へ向かう。

「神秘」ということの意味は何か。宮野浦岳の風景は、それを問いかける力がある。ここにもヒントがあるぞ、ここにもある、あそこにもある、といった発見が、撮っていて楽しい。

かなり粘って撮って、口永良部へ。火口近辺に地割れのあるフレッシュな火山。

次に琉球弧へ続くトカラの火山列島をたどり奄美大島へ。 ここは以前、離島問題の写真集を作るので20回は訪れた懐かしい場所だ。うち3回は、G109Bで飛んできたのだった。

トカラの中程の諏訪之瀬島には、ヤマハが作った滑走路がある。リゾート・ブームの20年も前に先走って作られた飛行場だ。そしてその滑走路は、島の1,000m級の活火山、御岳の山頂から3kmしか離れていないのだ。

係留しておくと、翼の上面は噴煙のおかげで灰かぐらになるのだった。そればかりか、ダウンウィンドを飛ぶとき、不思議な逆転層?だなと思えば、漂う火山灰だったこともある。

強烈な地震のあった悪石島、小宝島、宝島と伝って4時間27分飛んでRJKA奄美空港へ。

出砂島(入砂島)


口永良部火口


諏訪之瀬島


ドーナツ


久米島


硫黄鳥島


硫黄鳥島
そもそも当初の予定は、奄美で給油し、昼飯を食ったら、宮崎へ戻る予定だった。そのため、宮崎市内のホテルもチェックアウトしていないし、部屋の鍵さえポケットにある。

でも、この日は万全の天候だ。ムラムラと長年の夢であった沖縄へ飛ぶという誘惑にとらわれたのだ。奄美まで来てしまえば、那覇まで2時間はかからない。

写真が無いんだ、と言われた沖縄鳥島も、行きがけの駄賃で撮れるかもしれない。奄美着陸が午後1時であるから、離陸は2時半か。となれば、行きがけは無理でも、明日の帰りがけに立ち寄ることは出来るだろう。

那覇空港は、年間150〜200時間飛ぶ、だいぶスレてきたアマチュア・パイロットにとって、「挑戦する飛行場」としては魅力いっぱいだった。使わせてもらうことが簡単ではないからだ。

大手エアラインはもとより、戦闘機、哨戒機、離島便コミュータ、小型機、一切合切入り交じっている上、附近には米軍の飛行場である嘉手納や普天間があって、空域は比類ないほど混んでいる。しかも那覇管制圏以外は全く米軍管理の管制となっているのだ。ATCの困難さは日本一のはずだ。

もしここで通用すれば、これからは日本中どこでも問題なく飛べるのだ、という期待がある。それがパイロットとしての、沖縄への誘惑の大きな理由である。
 しかし、ここは停留場所の確保ひとつが簡単ではないのだ。いろいろ手続きをとらねばならない。

ターミナルのレストランで奄美料理を喰いつつ、覚悟して那覇の管制情報官に電話した。小型機の駐機場は滑走路を挟んでCAB局舎やターミナルとは反対側の海側にしかない。

機体を停めても、場内タクシーであるハンドリング会社を使わねば、空港から出ることすらままならないのだ。その料金は1万円。滑空場の常識からいえば高価だが、仕方ないかといった感じ。早朝の機体への送りや、今晩のホテルの予約なども頼んでしまおう。

手続きがオール・セットアップでき、フライトプランを入れた。目的地飛行場那覇の地点略号はRO**何だった?、ここからRJじゃなく沖縄のROのはずだよな、戦後を引きずっているもんな、と「日本の空港」の地点略号一覧(00-06-01Rev20)を見たら、RJAHと書いてある。あれ、那覇だけRJになったのか、と疑心もあったが、その通り記入した。

離陸後、そういえば百里がRJAHじゃなかったっけ、と思いつき調べたら、そのとおりだ。まさか奄美から茨城の航空自衛隊百里まで飛べるわけはないが、那覇Inforamtionを呼んで再確認するはめになった。

しかし、その前にもっと大事件発生。離陸前の大トラブルなのだ。

なんと機体の尾輪のタイヤが1/3ほどベロリと剥けて、カーカスが出ているのだ。タイヤ圧が高すぎた上、今までグルービングのヤスリのような舗装滑走路ばかりだったからだ。

一瞬、最悪のケースとして、奄美に夜間駐機することも考えた。だが、この空港のエプロンには係留鐶がない。強い風が吹けばヤバイのである。おろおろしつつも対策を急いだ。無駄な時間がたつと、タイヤが入れ替えられても那覇到着は夜になる。忙しい慣れない空港で夜間着陸はかなわない。

用心にこしたことはないと、常に尾輪のタイヤとチューブはスペアを搭載しているが、工具がない。燃料屋さんにお願いしてタイヤの入れ替えをしてもらった。離島ゆえアブガスは高価だったが、人情は島の人のものだった。アンタも困っているのだからと、工賃なしで作業してもらえた。嬉しかった。

これでは帰路も燃料を入れなければならない。1時間は無駄になったが、これで陽が残るうちに那覇に降りられる。

翌日、那覇のとても立派な管制情報官室で、至る所にある軍のレンジ(射爆場等)やウォーニング・エリアの状況をチェックする。

この日は、どこがホットでどこがコールドか。下手すれば実弾が飛んでくる。というのも久米島に行きたかったからだ。那覇から久米島に向かうと、W174/W174Aという空域が立ちはだかっている。そして、その下に、いつぞや海上自衛隊のP-3から見せてもらった広大な珊瑚礁が広がっているのだ。

翌日、那覇のとても立派な管制情報官室で、至る所にある軍のレンジ(射爆場等)やウォーニング・エリアの状況をチェックする。

この日は、どこがホットでどこがコールドか。下手すれば実弾が飛んでくる。というのも久米島に行きたかったからだ。那覇から久米島に向かうと、W174/W174Aという空域が立ちはだかっている。そして、その下に、いつぞや海上自衛隊のP-3から見せてもらった広大な珊瑚礁が広がっているのだ。

これを撮らずに、何が沖縄か。

離陸後のルートは、一度東に向かい久高島、戻って摩文仁(まぶに)、ドーナツ、慶良間、久米島、渡名喜(となき)、水納島(みんなとう)、海洋博跡の本部、そして沖縄本島の北東端から与論、帰りがけの駄賃としての硫黄鳥島、延々洋上を飛んで奄美、という具合だった。滞空時間は5時間になるかもしれない。

詳しい話は別の機会にするとして、ま、破綻はしないまでも、いろいろ大変だった。

沖縄TCAを管制するOKINAWA Approachは米軍人だし、忙しさは関東平野の横田Approachの4〜5倍はあるし、他機の交信に割り込む隙はなかなかないし、そもそも真っ直ぐ飛ぶための交信はできても、現場現場で思いつきで旋回して空撮するなど、おそらく彼らの常識にはないし、それを要領よく英語で説明することもままならない。

こんな洋上の低空に他に航空機がいるか?と思えば、哨戒機P-3は同じ高度を飛んでいるし、離島便のアイランダーもそこにいる。なかなか、緊張したのだった。

与論からヘディングを変え、思い切って、いや実際に覚悟して、硫黄鳥島に向かった。昨日も今日も、救命胴衣は腰に巻き付けたままだ。

AEIS那覇Informationは無線に指向性があるのか、3,500ftの高度では呼んでも反応がなかった。万が一エンジントラブルなど着水するような事態となったら、上空には121.5MHzで呼びかけて応答してくれる航空機はいるのか、そのとき極めて正確な位置通報をするにはどうしたらいいか、GPSの操作を繰り返した。

硫黄鳥島は新鮮な風景だった。

生まれゆく土地なのか。「火山」が海に流れ出していた。火口と認知できる場所は、1カ所ではなかった。その時噴出した溶岩の粘性にも差があったのか、表情が異なっていた。

そして形成された土地を東シナ海の荒波が一気に削いで、断崖も生まれていた。誰も知らない日本を、また見た、と思った。

撮影後、硫黄鳥島から奄美へのルートは90nmほどもあった。真っ直ぐ行けば、1時間の洋上飛行になるのだった。
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