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991207 JA09AW Dep. RJFR 09:48−14:11 Arr. RJFT 4h23m
前日は結構荒れた日だった。

北九州空港に係留した機体の向きが、強い風と直交しており心配だというので、空港の運用時間を過ぎてしまう可能性もあったが、夜の立ち入りをお願いして急遽福岡からかけつけ、機首を風上に向けて係留し直した。福岡では翌日の空撮を前に、地上撮影をしていたのだった。

一夜明けると、最高の好天である。この日は、長時間のミッションが予定されていた。撮影ターゲットの数が多い上に、福岡の特別管制区に接するようなデリケートな撮影が予想されている。簡単には飛べそうもないので、その1週間も前に飛行ルートや所要時間などを書いたものを福岡空港事務所に送り検討してもらい、前日には管制情報官を訪ねて、最終的な確認をして北九州空港を離陸したのだった。

撮影したかったものは、朝鮮半島とのかかわりのある歴史的遺構と、九州北部のキリシタン関係の風景である。これを1フライトでこなす。

金印の志賀島、能古島、元寇防塁、魏志倭人伝にも登場する怡土(いと)城跡、太宰府防衛の水城、朝鮮式山城の基肄(きい)城趾、吉野ヶ里、伊万里港、朝鮮出兵の拠点・名護屋城趾、その名に日本に最初に馬が渡ってきた言い伝えを込めたキリシタンの島・馬渡(またら)島、元寇の大激戦地・鷹島、平戸城と東洋最大のオランダ商館であった和蘭商館跡、瀬戸山天主堂、生月島、などといった具合だ。そして最終目的地は、翌日のミッションのために熊本とする。


G109Bの最大の長所は、飛行時間を気にしなくて済むことだ。燃料は100L搭載できるが、時間消費は15Lといったところで、6時間は心配なく飛べる。その機体性能はいいのだが、人の性能がなかなかだ。

一口に6時間といっても、眠っていればよい旅客機と異なり、思いの外考えねばならないことが多く、気を張っていなければならない。管制機関との対応や、突然変化する気象もある。腹も減ればトイレも心配で、ここらあたりが生理的条件の限界だろう。



眉山?


平戸遠謀


瀬戸山天主堂


五賢島
福岡特管区や管制圏に接する撮影はTCAのレーダー・アドバイスを受けて行った。「今、A300が降りてきます。飛行ルートを西に向けてください」、「了解しました」、といった事の連続だ。

福岡の南、基山の山頂に連なる土塁、基肄城趾を最後に空撮を中断し、背振山をなめて、吉野ヶ里に向かった。ここも陸上自衛隊目田原駐屯地の管制圏内にある。平日故に事前申請しなければ立ち入れないかと思ったが、無線で尋ねると「どうぞ」とのこと。

それから伊万里に抜けた。そのとき、眼下に見事な棚田があった。山の中ゆえ、それがどんな名前の山なのか、どの行政区に属するのか、なかなか特定できず、旋回を続けてひたすら写真だけを撮った。あとで狙った町の社会教育課にでも写真を送り、特定してもらわねばならない。麓のバス停の文字でも読めればいいのだが。(眉山か?)

名護屋に向かう。伊万里湾の先、福島町にも見事な棚田があった。人の営為の美しい風景である。同じ営為でも、上空から見るゴルフ場やスキー場は、どうしてガン病巣のようにしか見えないのか。

ところで、秀吉は何を血迷って朝鮮に出兵しようとしたのだろうか。

信長は、天下布武の本拠に、独自一己を発揮する新しい地平として安土を選び、城を造った。楽市楽座、関所の撤廃、道路整備、軍隊による土木建築、商人職人の優遇。その雄大な都市計画のコンセプトには、本当の外交をしようとする意志もあったように思う。「伴天連はいかなる動機から、かくも遠隔の国から日本に渡ってくるのか?」。

いかなる仏僧にも地所を与えなかった信長だが、宣教師の修道院建設の申し出には自ら土地を選定して与えている。「万物の創造主」といった観念は日本にはなかった。天下統一にあたって、信長はすべてのものを統一的に考えようとし、元始とは何か、「一」なるものはあるか、それは何か、といった思想的興味を持ったのではなかったか、ということを秋山駿は『信長』に書いている。

「産業、交通、流通、貿易の振興、そして精神の自由への、総体的かつ一貫した視点がある。政治的施策がある。これらの行為から、信長の脳裏にあるはずの、新しい日本の姿というべきものが浮かび上がってくる。それは一つの理想である。天下布武とはそういう意味のものだ。単なる天下の統一ではない。理想もないのに統一したところで何もならない。やがてわれわれは、秀吉という、天下を統一したところで理想を無くしてしまった男が、強引に朝鮮出兵という途方もない冒険に憑かれた、歴史上の悲劇を観ることになる」(秋山駿『信長』)

秀吉は九州征伐を行い、天下統一を達成した。そのとき、この先に位置する島々を見通したに違いない。そして、大艦隊を編成し朝鮮半島を武力で征服することにより、新たな領土を自らの子息や配下に分け与えるという観念に、単純にとらわれたに違いない。名護屋の上空からは、目と鼻の先の加唐島、馬渡島の次に、壱岐が、そしてうっすらと対馬が遠望でき、その先には朝鮮半島が存在するのである。上空には、難なく伝っていけそうな風景がある。

この朝鮮出兵で手柄をたてた平戸の松浦氏は、半島から多くの陶工を連れて帰ってきた。九州北部で焼かれるようになった高麗風の日用雑器は、陶器から磁器への移行という技術革新を経て、伊万里港から輸出されるようになり、後年国際的な名声を勝ち得ていく。

上空から見る名護屋城趾は、積雲の影に覆われていた。それが通り過ぎる時間をつぶすため、半島の先にある馬渡島に渡る。天主堂がある。この島にはふたつの集落がある。古来より土着の島民の漁港を中心の集落と、寛政年間に渡ってきたキリシタンの新村である。山がちな斜面にある新村では、封建時代には「外部に対しては極端な封鎖主義をもち、内部にあっては協力一致、世俗の生活に置いても宗教的信条に絶対服従してきた」という(法政大学カメラ部編『日本の離島』)。

さて、鷹島を通って平戸を目指す。

2度目の襲来である弘安の役(1281年)で、元軍は900艘からなる東路軍を朝鮮から南下させ、3,500艘からなる江南軍を寧波から東シナ海を渡って北上させた。この両軍が合流したのが肥前鷹島だった。先着した江南軍は東路軍を間って1ヶ月もここに停泊する。そこへ暴風雨が襲う。3,000余艘は伊万里湾口に沈み、浦々は溺死した蒙古兵の山となったにちがいない。この暴風雨は全くの偶然であった。しかしそれを天佑、神助と錯覚した日本人は、「神風」を頼りに太平洋戦争へと突き進んだのである。(要旨・白石一郎『海よ島よ』による)

城下町・平戸は戦国時代末期に成立しているが、1609年にオランダ船2隻が現れ、通商を求めたことがこの街を特徴づけている。城主松浦隆信の仲介で幕府の許可を得たオランダ東インド会社が商館を置くことになったからだ。

ここには倉庫、埠頭はもとより、火薬庫や病院もあったという。英国も、家康の外交顧問であった三浦按針の努力で英国商館を開設した(1613-23)。交易の最盛期には、平戸には諸国の商人や大名が集まってきたが、しかし幕府は鎖国に転じる。1640年、商館倉庫の壁にオランダ歴の年号があることを理由に、幕府はオランダ商館破却の命を出し、商館は長崎の出島に移ることになるのである。その小さな埋め立て地は、居留地であり牢獄でもあった。歴代商館長には自殺者さえ出たのである。

そして、鎖国の徹底とともに平戸も急速に忘れられた街になっていく。上空からは城は分かるが、商館跡はよく分からない。

1613年、禁教令。23年、長崎で絵踏みが始まる。37年、島原の乱。39年、ポルトガルの来航禁止。57年、大村領のキリシタン600余名が捕わる。こうした激しい弾圧史にも、この宗教は消えることがなかった。

平戸大橋を挟んだ対岸に、大きな天主堂があった。瀬戸山天主堂だ。入り口に通じる道、周辺の芝生、見事に整備されている様子が、歴史を通じていきづくものを感じさせる。

鎖国は、徳川三百年の平和の維持に大きな功績があった、という説がある。たしかに幕府政権は、鎖国によりその崩壊を免れた。しかし市井の人々にとっては、世界の文明から取り残され、アジアの一隅に孤立したことの損失の方が大きかったのではなかろうか(要旨・白石一郎『海よ島よ』)。

中でも最大の損失は、海を防壁としてしか考えられない習性が刷り込まれたことではなかったか。海を、広がりとか交流とか冒険とかいうステージでは捉えることができず、内を向き、例えば土地にしがみつく。最近の、バブルに踊った土地神話など、極めてドメスティックで象徴的ではなかろうか。

こうした性癖は、きっとこの列島に住む誰の内側にもあるものなのだろう。空も海と似ている。航空スポーツを語るとき、ある種の滑空団体などに同じような要素が垣間見られ、これが日本人というものか、と改めて感じさせられることがあるのだ。飛ぶということは、変幻自在な視点を持つということでもある。そこには、もう少しイメージを拡大させる要素があるように思うのだが。

平戸の西の薄香湾には、五賢島というきわめて小さな島があり、12月に入ったというのに紅葉が残り、一種の宝飾品のようで、心が和んだ。
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