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この前書いたように、戦後『最初の100機』を考えつき、JA2001からの100機の行く末がほぼ判明した頃、ぼくはまた別の、とんでもない宝物に遭遇した。以来、この2週間ほど、その宝物を用い、猛烈な勢いで誌面を組んだのである。そして、出版をするならば、こんなふうにまとめたいという試行的なものが、ほぼ固まった。

宝物とは、戦前の日本滑空の全貌を最も的確にまとめた写真集、『滑空日本歴史写真輯』(航空時代社・昭和18年刊)に使われた写真の、おおよそ2/3の量のプリントが見つかったのである。そして保管者から、新たな使用に関して、きわめて好意的な内諾も得ることが出来た。ひょっとしたら、あの本を現代的にアレンジしたリプリントが作れるかもしれない。
ひとり興奮の毎日であった。



『滑空日本歴史写真輯』との出会いは、およそ25年ほど前である。
滑空機自家用の資格を取得し、1年ほど関宿のクラブで遊んでいたが、占有できる機体がどうしてもほしくなり、堀川勲さんの口添えで、岐阜の木村貫一さん(TP09「703とそれ以後のこと」参照)のところに、休眠中のKa6CRを借りに行ったときだった。
144頁ハードカバーの『写真輯』は、奧付けを見ると、定價参圓五拾銭、特別行為税相当額拾八銭、合計金参圓六拾八銭で、8,000部発行されている。
敗戦色が濃い時代に刊行されただけあって、巻頭の32頁のみがグラビア刷りである。「写真銅版を造ってアート紙に印刷すれば立派なものになることは知れ切ってゐるのだが、今日の出版新體制下では用紙の點で思ふやうにならないのみならず銅の献納を緊要事とする戦時下に於いて、肝腎の寫真製版に供する銅版がさうむやみに得られる筈がないので、全部を正眞の銅版と為す第二の希望も断念せねばならなかった」と後記にある。

ぼくはこの1冊に心を奪われ、2度目に岐阜に行ったとき、まるまる1冊をコピーさせてもらった。木村さんの、倒産したガランとした工場跡から、何年も使われていなかったコピー機を木村さんの自宅に運んでコピーしたのであった。

『滑空日本歴史写真輯』の発行者の渡部一英は、昭和5年から「航空時代」という月刊航空雑誌を発行していた。
あの磯部鉄吉がドイツのツェクリング型を模した機体を造り、所沢陸軍飛行場で飛ばした年である。日本グライダー倶楽部が設立され、東京駒沢で「最初の滑空公開」(ゴム索および自動車牽引)が行われたのも、この年だ。自動車牽引(曳航)の利便を高めるため、プライマリー機のスキッドに、子供用自転車の車輪が付加されている写真が『滑空日本歴史写真輯』にも掲載されている。そして背景に写る大勢の見物客。

月刊「航空時代」は、精力的に萌芽期の日本滑空を主導した。
九州で十文字号が「新記録8分34秒」飛んだ(昭和7年)、九帝5型阿蘇号が「滞空20分距離20粁」飛んだ(昭和8年)、などという興奮のレポートが掲載されている。そして昭和9年には、「時間の壁」を超えて、阿蘇号が1時間26分10秒飛ぶのである。
大阪で帆走飛行連盟が結成され、初めて生駒山から滑空が行われ、昭和10年には九帝7型が阿蘇外輪山において4時間の滑翔を成し遂げたところに、ドイツからウォルフ・ヒルトが招聘されるのである。
この時代の「航空時代」掲載のグライダー記事にこもる熱気は、むやみに感動的である。
木村貫一さんの当時のお宅には、この当時の「航空時代」も残っていて、むろんそれらもコピーさせていただいた。

月刊「航空時代」は戦争が激化する昭和17年10月号(第13巻第10号)をもって終巻する。この最終号には、堀川勲さんの戦前の作、堀川版グルナウ・ベイベィともいうべき巴式はノ壱型ソアラーが紹介されているはずである。
はずであるというのは、木村さん宅に全巻揃っていた「航空時代」が、倉庫の漏水でボロボロになって、昭和13年以降のものは、残念ながら見ることができなかったためだ。しかし、根っからの整理魔である木村さんは、グライダー関連の記事を調べるために、全巻の目次ページをコピーして、それだけを製本して保管されていた。だから今も、戦前のいつ、滑空に関わるどのようなことがあったのか、おぼろげながら分かるし、航空図書館は頼りないにせよ、少なくとも国会図書館には全巻残っているはずである。あの目次のコピーがそんなとき、どれだけ役立つか。
ちなみに巴式はノ壱型ソアラーの写真は、今回手に入ったのだが。


さて、月刊「航空時代」が終刊になり、戦争状況が一層厳しくなったその9ヶ月後に、おそらくは戦前滑空の最後の総括として、『滑空日本歴史写真輯』が発行になる。本当に大変だっただろうと思うし、何よりもそこに発行者の執念というものを、感じずにはいられないのだ。

木村さん宅で『滑空日本歴史写真輯』をコピーさせてもらってから、折をみて古書店などで幾種類もある戦前の航空雑誌を探した。名古屋の郊外で、図版の美しい「航空知識」16冊を衝動買いしたこともあったし、中澤寛次さんの通夜の席で、失礼も顧みず読みふけった資料もあった。前田健一さんや中澤寛次さんが遺された写真のいくつかも、スキャンさせていただいた。
そうしたことから、何かしら少しずつ、匍匐前進のように戦前滑空に対する知識が増えていったように思う。

さて、今年5月の連休に、南アルプスを飛ぶ日本の先端的な機体を空撮したとき、10年振りにフライトに復帰した渡辺翼君が、じつは素晴らしいプレゼントをくれたのだった。
「インターネット・オークションで、こんなものを落札しましたよ」
みると、幻の『滑空日本歴史写真輯』に、清水六之助『日本の滑空飛行』、藤原金太郎『国民グライダー読本』など、いずれも戦前に好評を博した書籍である。
「すっげぇじゃん、よくやった」
軽口は叩いたが、これも何か運命的なものがあったのだろう。オリジナルの1冊を改めて見ると、それが匍匐前進のように拾い集めた資料や写真と相乗効果をかもしだし、機体や出来事に対する相関関係の図式のようなものが、ある程度リアリティを感じられるような気がしたのだった。同じ本であるのだが、木村貫一さん宅で初めて見たときとは、一皮むけた何かがあるような気がする。ちょっとはこの分野で成長があったということだろう。結局、そうした勉強の日々が、ほぼ25年は続いたということだ。

そして今回、『滑空日本歴史写真輯』の入手から2ヶ月で、まさにこの本に使われたオリジナルの紙焼き写真を手にしたのであった。

それらの紙焼き写真には、63年前に印刷所に送られたままのものがあった。写真はペラ紙の指定紙に貼られ、指定紙にはタテ何寸何分、ヨコ何寸何分という指示が、墨筆で書かれている。おお、尺貫法なのだ。
あるいは、トリミングの指定が、直接紙焼きの上に、やはり墨筆で枠が描かれ、切り落とす部分には斜線を何本も引いてあるものもある。乱暴というかダイナミックというか、半世紀以上前の同業の編集者の手口に圧倒された。その写真がまして、昭和10年に帝国航空協会が招聘した、あのヒルトが、奈良盆地上空をゲッピンゲン1型に乗って曳航されているものだったりすると、ことのほか深いため息が出るのである。



紙焼き写真の状態は、いずれも決して良いとはいえない。半世紀以上前に使われたときには完璧なプリントであったに違いないが、ちょっとした定着液のムラが絵の片方をひどく濃くしていたりする。なにせ背景は基本的に均一なトーンの空だから、さしものPhotoshopを駆使しても、なかなか復元が難しい。また年月が銀塩の銀を浮かせていて、コントラストをほぼ失ったものもある。一部あるいは全部が全く黒ずんでしまったものもある。
さらに画面の傷。端が折れた程度は可愛い。真ん中が折れたものもある。クリップで束ねられていた写真には、その錆が画面をえぐるように付着している。どこかで湿度を拾い、乳剤面が一部剥がれたものもある。スクラッチが激しく、それを目立たなくするスポッティングも技術的に乱暴だなぁと思うものもある。
そもそも画面が正確な長方形をしておらず、台形に歪んだものもある。引伸機に置いたイーゼルが精度のないものだったのだろう。
そして、全般的にどの写真も小さい。

それらを3〜4日かけて密度高くスキャンし、23inchディスプレーで丹念に調べた。調べつつ、補修をした。あの当時、グライダーの写真を撮った人は、もしグライダーが本当に好きであったなら、きっとこういうふうに見せたかったんだろうな、と何か乗り移ったようなものを感じた。

さらに、写真の裏面には、キャプションや、撮影者が手書きした撮影年月日、写真説明がかなりあった。これは非常に助かった。
メーカーのリリース写真なのか、裏面に「福田軽飛行機株式会社」とかあると、ああやはりこのオリンピア・マイゼは福田製のA-1520か、と分かるような具合だ。
へぇ、これが有線電話で曳航機とをつないで、日本初の交信可能な飛行機曳航を実施したときなのか、なんていうのもある。

機種の特定は、8割9割はできた。『写真輯』に使われたものもあれば、使われなかった写真もある。同じ機体なのに、アングルが異なる写真もある。それらについては、昭和12年3月までであれば、J-4桁アルファベット、それ以降であれば、ソアラーについてはA-4桁数字、セコンダリーについてはB-4桁数字の登録記号を頼りに、照合すればまず間違いがない。
不明なものは、じつは『写真輯』に使われなかったものも数多くあり、おそらくは昭和5年から昭和17年まで刊行された月刊誌『航空時代』のどこかで使われたものだろう。とすると、国会図書館にでも出っ張っていって、丹念に全号を調べなければならない。
それも手間はかかるが、これで滑空史の全貌を自分のものに出来そうだという楽しみは大きい。



しかしあの『写真輯』も大ちょんぼをやっている。
昭和16年に大日本飛行協会と大毎・東京日々が提唱して、懸賞付き中級機の設計コンテストが行われたことがあった。「逓信省試作中間練習用機」設計懸賞募集である。20機の応募機の中から4機が選ばれ、その4機は実際に製作され、茨城県石岡にあった大日本飛行協会中央滑空訓練所において、翌17年にフライオフが行われた。その4機種の機名が『写真輯』では全部違っているのである。写真と写真説明の置き場所を、編集部なのか印刷所なのかが間違えたのだろう。
60年以上前の同業者が遺したひとつひとつが、身につまされるような気がする。

さて、手にした写真を編年で並べると、大きく欠けたものがあった。
明治42年、日本で初めて「学理に基づいて」上野池之端で飛んだルプリーエー仏大使館付武官製作の複葉機。
昭和5年、磯部鉄吉の鹿島砂丘における公式滑空試験。
昭和10年、一連のヒルト来日の写真。
昭和11年、日本一周曳航飛行のゲッピンゲン1型(俯瞰して撮られたいい写真)。
昭和12年、第1回全日本帆走飛行大会の主要各機の発航時の写真(これもカレンダーにしたいほどのものが多い。スタティックなものは今回あったが)。
昭和14年、スピンを起こした日本式鷲型(複座)から初のパラシュート脱出生還の連続3コマ。
昭和15年、文部省1型初号機。
そしてあの富士山(宝永山)からの、「天地の境」からスタートした6機のオリンピア・マイゼによる距離滑翔競技の一連の写真。『写真輯』には、どのようにして山上に機体を運搬したか、いかに濃霧に耐えたか、発航に使われた滑走台(簡易カタパルト?)などが掲載されているが、使用されなかった発航直後の1コマがあるのみだ。これは、眼下の雲海に離脱したマイゼとゴム索が写っている、ややピンぼけ写真(機番も判明せず)だ。しかし、圧倒的な迫力がある。
昭和16年、中央滑空訓練所および明治神宮奉献滑空訓練大会関係。

一方で、『滑空日本歴史写真輯』には紹介されなかった軍関係の滑空機や、遅れて現れた小型版マイゼというべき福田製光式5.1型、さらに年月は特定できないものの、いわゆる「普通の」滑空活動の、なかなか見応えのある写真もある。

ページどりをするように、ラフなレイアウトを進行させ、他からも入手した写真を合わせて編年で並べてみると、例えば九大佐藤先生を中心に開発された機体が、いかに前田健一さんにより商品化されたかが分かる。
山崎さんの案になる文部省1型試作機が、運用軽視だなぁと思わせるところが、福田の木村・蔵原によっていかに修正されたか、などということも分かる。
国(逓信省)が主導し、いかに技術力を上げるか、躍起になっていた様子も分かる。
個別の機体はともかく、もっと大きな社会的国家的うねりとして「学校教員滑空訓練講習会」などの開催から、「滑空訓練」が中学校の正課になっていく様子もみてとれる。それはきっと、現在の(社)日本滑空協会が文部省(文科省)管轄の滑空活動統括組織であることと、決して無関係ではない。

そんなわけで、夢中で作業したのだった。
ひょっとして、この復刻版まがいの本も、今出版しないと、たぶん永遠に日の目をみないのではなかろうか。



過去10年、ぼくたちは戦前の日本滑空に関して2冊の書籍を手にすることが出来た。
1998年に出版された日本昭和航空史『日本のグライダー』(川上裕之著・モデルアート刊)
1999年に出版された『日本グライダー史』(佐藤博著・木村春夫編・海鳥社刊)
の2冊である。
ともに滑空史を語るには欠かせない本であるが、原資料の密度がいずれも九州偏重である印象を受ける。どちらの本も九州人が作ったものだし、資料のソースも九州に関わりがあるからだ。たしかに昭和1桁時代(といっても3年間だが)は、確かに九大と前田工作所がすべてをリードしたのだったが、昭和10年、ヒルト来日以降はもっと広範な活動が日本全国各地であったはずである。そこに至ると、可視範囲がクローズアップされる。
今、ここにある「航空時代」の写真群が、その何よりの証拠である。
また、惜しむらくは写真が小さい。同じ写真が掲載されるにせよ、もう少し存在感のある見せ方があってもいい。また、どのみち往時の話を聞くべき人が、この10年にほとんど亡くなってしまった現在においては、当時の雑誌や写真集が記述したとおりのことを、写真に付け、写真主体の1冊にすることが望ましくはないだろうか。



書籍は文章がなくては成立しない。掲載する記事については、『滑空日本歴史写真輯』に記載されたものに加え、昭和1桁時代の伊藤飛行機製作所のグライダー販売パンフレット、ドイツ滑空機の往時の輸入代理店であったフォッケス・ウント・コッホの機体紹介文、逓信省試作をさせた後の、航空局航空官によるレポート、佐藤先生が帰朝後、機体メーカー美津濃における「最近の独逸に於けるグライダー事業について」講演録、昭和17年3月制定の「滑空機規則」等々、既存本になかったものも採録したいと思う。著作権の問題をいかにクリアにするかという大きな問題はあるが、できるかぎり著作権継承者を探し出しお会いして、可能ならば諸々の原資料をそのまま掲載する形で、仕上げるような1冊にしたいと思うのだ。

A4正寸、200頁を超える将来に残る1冊になるような予感(制作者自ら言うのも変だが)があるが、こうした書籍に興味ある人は、今どれほどおられるのだろう。
すぐさま直面するであろう販売のことを考えると、500部売れるだろうか?と悶々とするのである。

最近、日本航空協会には「航空遺産継承基金」というセクションができ、その最初の成果が、宮原旭さんの『男爵が愛した翼たち』(上)という写真集の発行であった。しからばその趣旨に合う出版プロジェクトについては、何か支援とか補助とかいう制度もあるのか尋ねてみたら、予算も限られていて、『男爵』の下巻を出したら今年度の予算は使い切ってしまうということだった。
まぁ、そんなものだろう。



理想的な出版の形態を言えば、ダブルトーンとまではいかないにせよ、ちょっと凝った印刷で、遺す本だけに上製本(ハードカバー)にしたい。もし出版できれば、国内よりも外国でこそウケそうな気もするから、英文を一部にせよ併記したい。印刷代に加えるに、そうした諸々のコストを見込み、さらに制作に4〜5ヶ月専念してもかかるとして、最低でも400万円程度の制作費は見込んでおかねばならない。
とすれば、たとえ500部販売できたにせよ、定価8,000円で直販してもプラスにはならないということだ。常識的には、いくら高価でも5,000円内外のものだろう。ちなみに『滑空日本歴史写真輯』をインターネット・オークションで入手すると、なかなか機会はないが、やはり小1万するらしい。
でも、手許に200数十点の貴重な写真のデジタル・データがあり、日々それを眺めていると、なんとか実現できないものかと想いはつのるのである。

もし、この一文をお読みいただき、興味ある出版計画だとご賛同いただける方がおられたら、ぜひ編集部にご一報いただきたい。
ご一報下さった、本書が実現するのであれば買ってもいいとお考えの方が、もし300人おられたら、今までの微少出版の経験値から、たぶん実際の販売部数は、その2倍になるはずだと思う。そして、そのあたりの数値が、GOかNO GOかの境になるような気がする。

ご関心がありそうなお仲間に、こうした意向を持つ者がいることを、機会ある毎にぜひ伝えて頂きたい。ぼくは、もう少し夢を見たいと思う。
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