フェリーで島原半島に渡り、原城跡。原城陥落一揆軍全員討死は、乱勃発の4ヶ月後の1628年2月28日。ちなみに幕府軍は12.5万人、一揆軍は天草で1.4万、島原で2.3万人だったという。 |
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2003年夏に空撮した有家の海浜墓地を探して行ってみた。吉利支丹墓地ではないようだったのが残念だった。だが、ほんの1kmほど離れた西有家の須川港に近いところには吉利支丹墓碑がある。 |
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島原城。小倉・唐津・平戸・丸亀などの築城を担った松倉守重による連郭式平城であるが、4万石の分限をはるかに越える規模であり、莫大な築城費と、それが最高使命であった吉利支丹弾圧とが相まって、乱を引き起こした。 |
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吉野ヶ里公園の中に入ると、わりに愛嬌のあるイノシシに出会う。 |
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SJ-0329甕棺内人骨出土状況のレプリカ。頭部と上部頸椎が残っておらず、短剣など鋭利な金属器による傷跡をもつことから、死亡した戦傷者が頭部を取り去られたものだと想定された。 |
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穀倉、織物倉や、酒造、養蚕、機織り、祭具製作の家などからなる「中のムラ」。北内郭で行われる祭祀や政治的儀礼に使用する道具などが作られていた場所、と考えられている。 |
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頑丈な木の柵が続く吉野ヶ里。弥生の定住とともに本格的な戦が始まった? |
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北内郭には、主祭殿・斎堂・東祭殿・物見櫓・高床住居・竪穴住居などが復元されているが、主祭殿の内部には、吉野ヶ里の指導者達が重要な事柄を話し合うシーンが作られている。 |
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最高司祭者が祖先の霊に祈りを捧げる儀式? |
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遠望する北内郭。空堀ゆえに濠ではなく壕と表記される堀をはさみ、2重の頑強そうな木の柵で覆われている。
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国造だった磐井が生前に作らせたという岩戸山古墳の前方部。大和朝廷に対する不満のあった筑紫君磐井は、任那をめぐる日本と新羅の争いのなかで、527年に大きな反乱を起こした。 |
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岩戸山古墳は埴輪に代わる石像でも名高い。これはちゃっちいレプリカだが。 |
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歴史公園鞠智城。倭国と唐との戦争、663年の白村江の戦いに大敗した朝廷が、国内防備のために築造した朝鮮式山城。最前線対馬の金田城、大宰府防衛の水城、大野城、基肄城、鞠智城、長門城、さらには讃岐の屋島城、生駒山の高安城と大和防衛のラインが敷かれた。 |
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歴史公園鞠智城の主役、八角形の鼓楼。 |
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鞠智城のシンボル、鞠智城温故創生之碑。中央に防人、前面に防人の妻と子、西側に築城を指導したといわれる百済の貴族、東側に八方ヶ岳に祈りを捧げる巫女、北側に一対の鳳凰。 |
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