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半家天満宮(四万十へB)

天満宮本殿には、なんだか豪華な神輿が鎮座している。
1200を過ぎると、神社の境内には子供の姿が増えてきた。学校も半ドンであろうか。みな一旦集会所に入り祭りの装束に着替える。着替えた子供たちには草鞋が渡される。
本殿脇では、半切りにした繭型の竹籠に布が被せられ、中から突き出した棒の先に牛鬼の面が取り付けられた。牛鬼の角の向きが合わないし、遠隔で可動する口がうまく動かず、オッサン爺さん集まって、けんけんがくがくやっている。
ようやく祭りらしくなってきた。

獲物を求める獣のように、アマチュアのカメラマンが徘徊する。
この人たちは、何のために写真を撮るのだろう。自己満足? そういえば職業写真家の自分も、今回は特に誰かのために撮るわけではないのいで、自己満足の一員かもしれない。が、彼の動きは、そんなところで構えて何が撮れるのだろうと慨嘆するほどに無駄が多い。それが他の撮影者のジャマとなる。
もし、写真コンテストで審査員をする機会があれば全員選ばないし、写真クラブの講師にでも呼んででくれれば、技術以前のことを語らねばなるまい。

自戒を込めて書くが、たぶんこれは、アマチュア・パイロットのATCなどと共通する問題だ。下手らしいという自覚、その前提に立って迷惑をかけないようにしようとする自覚、それを解決しようという自覚、そのあたりを見せることができれば、プロも少しは寛容になってくれるはずだが、どの世界でも困ったことに、みな一人前だと思っている。

7月28日であったか、G109Bで熊本へ飛び、阿蘇神社のおんだ祭(御田植神幸式)を撮りに行った。
古くから伝わる豊作を占うお祭りで、白衣の宇奈利(うなり)が白い衣を着て顔を覆い、神々に捧げる飯櫃を頭上に載せて歩く姿は、エキゾチックな阿蘇の夏の風物詩となっているのだが、結局白衣の行列のそこかしこにカメラマンが写り込み、怒号が飛び交い、撮るには撮ったが不満たらたら、成果なく途中で退散したのであった。
表面的な文化活動が根のある文化を破壊するような気がする。修練を積むことを知らず、悪平等の、「分」をわきまえることがない社会だからだろう。

牛鬼と御輿は1400頃、沈下橋を渡って対岸の御旅所に向かう。
15分ほど前に神社から対岸に渡り、沈下橋に降りていく坂の中程で出を待つことにした。

頼山陽著「日本外史」には、「豊臣秀吉が加藤清正に朝鮮出兵を命じた文禄の役(1592年)に武将加藤清正が韓国の慶尚道にある晋州城を攻めるときに、亀甲車を造って城の上から射おろす矢や、投げつける石を防いだ」とあるという。
文禄2年6月、攻め入った加藤清正の兵士は晋州城の周囲を埋めつくしたが、徐禮元、金千鎰率いる朝鮮軍は激しく防戦し、城の上から射おろされる矢や、投げつけられる石は、雨が降り注ぐようであった。竹で作った楯をかざして応戦したが効果が薄い。清正はそこで、亀甲車というものを造り、その車に兵士を乗せて城の下にせまり、城の根元に穴を掘った。亀甲車とは、堅板で箱の形を作り、それを牛革で包んで、牛の生首を棒に刺しその先に掲げ、中に兵士が入って攻め戦ったものと言い伝えられている。城は陥落したのであった。
朝鮮出兵における亀甲車を使った武勇伝を宇和島に伝えたのは藤堂高虎であり、それが宇和島やその周辺に牛鬼というものが出来た起源であろうといわれている。江戸末期の北宇和郡吉田町の祭礼絵巻には牛鬼が登場しているそうで、明治期には南予地方に広く分布したようである。(宇和島市観光ガイドから)

その時がきた。牛鬼が沈下橋を渡ってくる。続いて御輿。幟を掲げる子供たちの行列。そして、遅れて鬼とお多福が走ってくる。
遅れてはくるが、鬼は単なる鬼か? 天孫降臨神話に登場する先導役としての猿田彦である。多くの祭礼で、それをひいて猿田彦は御輿の先導役を担っている。

96年3月発行の『自然と文化』「四万十の原風景」における座談会で、谷川健一氏らは以下のように語っておられる。
本来の猿田彦は、沖縄でいうサダル神がその元祖である。サダルのサダがひっくり返ってサルタになっているというのだ。そしてルが抜けてサダ。サダとなれば、これは先導するミサキ神を象徴する岬の名称、佐多岬、佐田岬、蹉陀岬などに現れている。

先導神猿田彦は、しかしいつしか習合し、邪悪を防ぐ道祖神に置き換わってもいるし、川の神である河童、すなわち猿猴(えんこう)とも言われる河童とも結びついてもいる。例えば、水の神が処女を懐胎させるという言い伝えなどでは、生まれた神の子は猿に似た形相であると描かれる。河童は猿の容貌をイメージして描かれることが多いのである。人間界にいたずらをする猿猴は祭り上げ、封じ込めねばならない。そうしたとき、神々の中で最も似つかわしくクローズアップされるのが、「猿」を名に持つ猿田彦だったのではなかろうか。

沈下橋をいく祭礼の行列には、いろんなイメージを重ねることが出来る。ひとり、面白いなぁ、と思うのである。そして、ここに至るボク自身を触発したものは、上空を飛び、上空から見た四万十の風景なのである。

御旅所に御輿をおさめ神事があり、その最中に鬼=猿田彦は暴れまわり、やがて一行は天満宮へ戻ってくる。
祭礼参加者は境内で、全員参加の踊りを見せる。大人や青年に混じり、保育園・小学校低学年も一生懸命躍るのである。

その後境内は縄により左右に分割され、片方が保育園児と小学3年生までの児童と70歳以上のお年寄り、片方がそれ以外の人たちと区分され、それぞれが十分に獲得できるよう配慮されたなかで餅撒きを行って、祭礼は終わる。
半家天満宮の秋祭りに民俗学的に重要な何かがあるか、それはよく分からない。しかし、上空から見る地形的必然の人々の営みといったものは、随所に顔を出すのである。無理矢理にも来て良かったと思った。

祭りが終わるころ、境内裏手の予土線をワンマンカーのディーゼル車が走り去った。1532半家駅発宇和島行きだ。次発は1726発だ。
また再び40分の山越えの道を歩くか、と歩き始めたら、天満宮から何人もの子供たちを乗せて山の中腹にある集落に帰るであろう車が脇に止まった。運転はそのひとりのお母さんだろう。
「どこに行かれるんです?」
「JRの駅に」
「この山道を?」
「ええ、朝もそうしました」
「それは大変、子供たちをそれぞれの家に帰したら戻ってきますから、山道をゆっくり行ってて下さい」
厚い情けとはこのことだ。田舎だからあり得ることとは思ったが、現実となるとたじろぐ。
路傍の興味ある物を撮りつつ山登りすると、10数分で奥さん、ホントに戻ってきて乗せてくれたのだった。
「なんなら宇和島までお送りしますよ」
いくらなんでも30数kmも走ってもらうわけにはいかないので、階段しかない半家駅の次にある江川崎駅まで送ってもらうことにした。ここは駅舎に「四万十川ふるさと案内所」があって、地元の産物やレンタサイクルの扱いもあるというから、缶コーヒーくらいは得られそうだと思えたからだ。

江川崎駅も、1530を過ぎれば無人駅と化すのであった。夕刻の江川崎駅には、かなり頻繁にスクールバスがやってくる。しかし、誰かが降りた形跡はなかった。
予土線も利用率が維持できないと廃線の憂き目に遭いそうな状況のようだ。到着地で運賃を後払いするのではなく、この地で切符を買えば、利用率向上の手助けになるような気がしたので、無人の駅舎の自動販売機で松山行きの切符を買った。

松山からは関西汽船のフェリーに乗った。眠る場所を確保すると、すぐさま大風呂にいき、ゆっくり浸かった。人の本来の能力からいえば、日に10km、20km歩くことなど当たり前のことであるが、日々そうした環境にはない。突然の出来心で自分に強いたことだ。慣れない「行軍」に疲れ体中が痛かったが、いつになくゆっくり湯船にいたおかげで、翌朝の回復感はかなり満足できるものだった。
朝0650に「さんふらわーこがね」は神戸六甲アイランドに入港したが、5日前にUS-2を撮った海面がそこにあった。13日間で4度目の神戸であった。


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